小娘の本気
ぐらりと視界が揺れて、前のめりに倒れこむ。
胃の中のものが逆流する感覚と激しい頭痛。叫びそうになるのをこらえて奥歯をきつくかみしめていると、温かい掌に、背中を二回、軽く叩かれた。
と、同時に、私は『彼』の腕の中にいるのだと、ようやく状況を理解する。
背中を流れる汗に眉をひそめながら顔を上げると、彼のあごひげが一番に飛び込んできた。若いころはモテたに違いない端正な顔は、年齢というオプションを与えられてさらに甘い。
首の後ろで一括りにした長髪は黒。甚平に包まれた肉体は、四十代後半という年齢を考えれば十分すぎる筋肉がついている。
私のヒーロー。
そして、私のお師匠様。
「大丈夫か?」
かけられる声に胸の奥がぎゅっとなる。小さくうなずいてこたえると、ぐるりと首を動かした。
ヤニのような原油のような、真っ黒でどろっとした液体の質感を持つ黒い『影』が、アスファルトの地面から徐々に浮き上がり何かを形成していく光景がそこにあった。
そうしてこいつの最終形が人の形をした『何か』だということも、私は知っている。
この異様な現象を見るのも何度目だろうか。
能力が発現してから一カ月――――少なくとも、片手は埋まってくれるはずだけど。
『負の感情を、具現化する』
たとえば嫉妬。恨みに欲望、コンプレックスに破壊衝動。普段は抑え込まれている負の感情を、自分から切り離して具現化する力。
はじめてこの能力があらわれた一学期の終業式、わけがわからず混乱する私を助けてくれたお師匠様は、ふたつのことを教えてくれた。
ひとつは影の正体。あれを放っておくと、人を襲い続けると。
もうひとつは、あれを退治できるのは生みだした私だけだということ。どんな形でもいいから、やつに『負け』を認めさせなくてはならない。
「にしても、今日はどうした。せっかくこんなかわいい恰好してるってのに」
夏祭り楽しみにしてただろ?
私の浴衣姿を見下ろして、お師匠様が苦笑する。けれどもすぐ素直にこたえる気にはなれなくて、甚平の襟をぎゅっと握った。
待ち合わせ場所で、お師匠様としゃべっていた女性の姿が頭をよぎる。
『そのヒトは誰ですか』
親しげに談笑している二人の姿に、その一言を飲み込んだ。
飲み込んで、影に隠れてふたりが離れるまで待って。その間、わざわざ比べる必要もないぐらいお子さまな自分を思い知って逃げ出したくてたまらなくて。
一方で、逃げ出したくない、そう叫ぶ自分がいることもまた、心の奥をざわつかせた。
すらりとした身長、豊満な肉体。お師匠様と並んで絵になるその姿に唇をかみしめる。お子さまなのはスタイルだけじゃない、中身もだ――――こんな簡単に『影』を生んでしまうぐらい、私は、コンプレックスにまみれている。
黙り込んだ私の背中を「おーい?」お師匠様が二回、軽く叩いた。
「言いたくなかったらいいんだから、な?」
「……お師匠様」
「それよりも、今はあっちに集中しなくちゃだしな」
そうだ、私がここでうだうだ考えていても、『影』が倒せるわけじゃない。
お師匠様の教えを思い出す。『影』を退治する時のコツ。それは、正の感情、というよりもプライドでもって『影』を叩き潰すこと。
“あんなやつに私は負けない。あんなやつごときに私が負けるわけがない。だって私は――――”
ぎゅ、と襟をつかむ指に力を込めた。
「これが終わったら、水着買います」
「お、おぉ」
「海に行くので連れて行ってください」
「決定事項か」
はは、軽く笑うお師匠様を、見上げることができなかったから俯いたままで続けた。
「だから――――だから、水着、絶対かわいいって言ってください」
私の水着姿に悩殺されて。
あのヒトなんか目じゃないって、お願いだから私だけを。
喉元まででかかった声を殺して、お師匠様の言葉を待つ。
遅れてやってきたのは、頭に、温かい掌の感触が一回だけ。それはお師匠様の境界線。
あぁもう、やっぱり届かないし!
「っ、いきます!」
立ちあがって、泣きそうになるのをこらえて、『影』に向かって走り出す。
今はまだ子供で欠点ばかりの私だけど、『影』がまったく出てこなくなる時がこの先やってきたとしたら。くじけそうな心をその一点で奮い立たせた。その頃にはきっと、お師匠様に釣り合う女に、なっているはずだからと。
出会って一カ月?
小娘の勘違い?
余裕な顔であしらうお師匠様の、見えないところで舌を出す。『影』に向かって八つ当たりのように(八つ当たりだけど)蹴りを繰り出し、心の中で繰り返すのは魔法の呪文。
こんなやつに私は負けない。こんなやつごときに私が負けるはずがない。
だって私は、ヒーローだもの!
――――小娘(ヒーロー)の本気、なめんじゃないわよ。
・・・・・・
冬だってのに夏のお話。
にしても根性+肉弾戦でねじ伏せるしかないって、もう少し何か設定考えられんのかね←
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