朝目が覚めたら、部屋の中を雨音が支配していた。夏にはつきものだろうが、今回は特別ひどいものらしい。雨音に混じってごろごろと鈍い唸りが聞こえてくる。
(不吉だこと)
思ってテーブルに視線を移すと、いまだ渡せていない回覧板が目に付いた。だからというわけではないが、この雷は隣人が仕事をしているせいかと、そんなくだらない妄想が頭をよぎる。――――忍者である彼の技のひとつに、稲妻を放つものがあるという。雷が彼の術ならばこの雨は。
「……くだらない」
頭を振って己の考えを笑い飛ばすと、彼女は気を取り直して身支度を整え始めた。昨夜彼が帰っているかはわからないが(今彼が仕事中かどうかも)隣人を捕まえるなら早朝だ、と彼女は勝手に決めている。最後に着替えを終えると、朝食も済ませずに部屋を出た。
こん、と控えめに戸を叩くと、おはようございますと聞こえる声。
――――ただし、自分の背後から。
「はっ」思わずあげそうになる悲鳴をぎりぎりで抑え、彼女は開閉を繰り返す唇をなんとか意味のあるものへと形を変えることに成功した。「――――たけ、さん」
お願いですから気配を殺して立たないでくださいと半ば泣きながら訴えても、彼は笑って流してしまう。これも職業病の一種なのだと言われたらどうしようもなかったから、反論されないだけマシなのかもしれないが、それでも少し不満は残る。
「回覧ですか? いつもすいませんね」
「いえ。それより、雨の中お疲れ様です」
「ハハ。ま! 天気ばかりは選べませんからね」
聞けばたった今任務から戻ってきたばかりなのだという。何の任務かは聞けないし、もちろん彼も言わなかった。けれども服に汚れや破れが見られないこと、それに何より彼が今ここにいるということがすべてなのだから、と彼女はほっと安堵の息を吐こうとして固まった。
そうして考える。
彼は今回の任務で雷を操ったのだろうか。
彼は今回の任務で――――涙を流したのだろうか。
忍が涙を見せるなど、ありえないことだと理解している。理解していても気づいてしまったのだからどうしようもない。雨で流れてしまってもそこはかとなくただようあの匂い。舐めたらきっと、眉を顰めるだろう鉄の味。
雷が彼の術ならば、この雨は彼の涙なのだろうか。
ほんの少し前の思考が再び蘇ってかき乱す。ザァ、と、雨音が一際大きく感じて煩い。
「……どうかしましたか?」
気遣う声に、彼女は我に返って凍りついた表情を微笑みに変えた。きっと彼は自分の変化に気づいているだろうけど、そんなことなかったかのように微笑んで言う。「いいえ」と、そして。
「おかえりなさい」
こんなことしか、言えない自分がもどかしくも感じるけど。それでもこれが彼が選んだ道なのだから、自分が歩んでいない道なのだから、そこに自分が何かを言うのは勘違いも甚だしい。何かできたらと、思わないわけではないけれど。
思うからこそ、そんな自分ができることを、彼女はしようとそう思う。
彼との間に許された領域の中でできること。
それは――――
ただいまと、言って彼は彼女の手から回覧板を受け取り静かにその右目を細める。つられるように、彼女も静かに目を細めた。
・・・・・・
雨に頼って泣かないでと。
いえるほどの関係ではまだないから。
しかしすっごいシリアスな話にしてしまいましたけど、血の匂いの正体が帰りにうっかり転んで擦ったからとかサクラやナルトにくだらんこといってやられたとか、そんなオチだったらとても救われない(コラ)
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朝早くを狙っての回覧回しは果たしていつものごとく成功し、彼女は任務前の彼を捕まえていつものごとくほんの少しの世間話。
そういえば、と徹夜開けの頭を動かしながら続けられた彼女の言葉に彼が返したリアクションが、唯一“いつも”の例外といえた。
「25℃、ですか」
沈んだ彼の声に内心首をかしげながらも、彼女はえぇとこたえを返す。確か今日の気温は25℃までしかあがらないそうですよ――――ここしばらく続いた真夏の気温を振り返って、彼女はうれしそうにそう言っただけなのだけど。
「……そう、ですか」
言った彼の周囲の空気が、さらにずんと重くなる。何故だろうと考えて、彼女ははたとあるこたえに辿り着いた。
もしかして。
導き出されたこたえがあまりにかわいらしくて、彼女は思わず笑ってしまう。
「大変ですね、それ」
「えぇ、暑いんですよこれ」
うんざりした表情で、彼は身につけているベストをみやる。深緑色のそのベストは、なるほど収納性には優れているかもしれないが、お世辞にもこの季節使用、という風には見えない。
実際のところ、彼女は口布のことを言いたかったのだけど、そこはあえて言及しないままにした。察するにどうやら彼にはそれを外すという概念すら存在しないらしい。おそらくベストを脱ぐことはあっても、口布を外すことは世界が破滅するぐらいありえないに違いなく、ここまでくると口布は最早意地を通り越して、彼のアイデンティティのようにも思えた。
「でも、中には身につけてない方もいらっしゃるんでしょう?」
「そうなんですけどね――――ま! これで慣れちゃってるんで他の格好はちょっと」
普段と違う格好をしていると、咄嗟の時に反応できないということが起きてくるのだろう。いつもの場所に巻物がないクナイがない――――忍という職業上、「慣れ」故の動作は些細なことでも命に関わってくるに違いない。改めて彼の職業に伴う危険を感じるとともに、ベストひとつ変えられないなんて融通の利かない仕事だとも彼女は思う。
肩を落としながら任務へ向かう彼の後姿を見送って、かすかに朝焼けの残る空へと視線を移す。
この早朝の涼しさが、一日続いてくれればいいのだけど。
そんなささやかな彼女の願いは、しかし晴れ渡った空に届くことはなさそうである。――――それこそ、彼が素顔を見せるのと同じぐらいに。
・・・・・・
中忍以上の格好は一様に暑いと思ってますけども(笑)
カカシは口布をしてる分なおさらだと思うんですよね。暁の人たちも。
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「水平線って、みたことあります?」
隣人のそんな問いかけに、カカシは片目を瞬かせたあと、ありますよと、頷いた。
「え。見たことないんですか?」
「えぇ。あいにくと」
生まれてこの方、ほとんど里から出たことありませんからねぇ。出たとしても国内ですし。そう言う彼女は、なるほど確かに仕事が仕事なだけに家から出ることすら危い日常を送っている。
彼女は忍ではなく作家。中には取材と称してあちらこちらと出かける作家もいるようだが、彼女は手元の資料のみで創作するタイプだった。むしろ他の場所にいくと集中力が散る気すらして、海へなんて遠出はもってのほかだったという。
「まぁ、仕方ないんですけどね。でも、いっぺんでいいから実物をみてみたいな、なーんて」
つんとする磯の香りにべたつく空気、何もしなくても身体が浮く水とざらとした砂浜。それらすべてが「知識」でしか知らないことで――――だからというわけではないが、『海』を登場させたことはないのだと。もちろん「知識」しか知らないことは、山ほど作品に出している。だから、これは単に私の片思いなんですと彼女は苦笑した。
憧れだけがそれこそ溺れるほどにあふれてしまって、まったく形にならないのだと。
「いくら描写しても『こんなんじゃないだろ!』なんて思っちゃうんです。バカですよねー」
晴れ渡った空を見上げ、まぶしさかそれとも自嘲にか、目を細める彼女を見ながらカカシはふいに言った。
ならと。
「なら、いきましょうよ」
「はい?」
水平線も磯の香りも海の辛さも泳ぐ魚も足をさすクラゲも。
すべてこれからいって体験すればいい。
「で、でも」遠い、し。
「まぁ確かに遠いですけど、もっと遠くまで取材にいく方を知ってますよ。なんでしたら護衛とか」
「や、」そんな護衛なんて。
「外での経験が豊富な忍なら、いいナビになりますよ?」
「な、ナビ……」
そんないいナビゲートができる経験豊富な忍者など、一介の作家ごときの収入で雇えるものじゃ――――絶句する彼女とは反対に、カカシは普段とは段違いの饒舌ぶりを発揮してゆく。
その程度の任務ならDランクですから、恐らくは下忍が当たるでしょうね。下忍ってのもまぁ、ピンからキリまでいましてね。大丈ー夫、いいのをご紹介しますから。下忍で誰か指名する、なんて珍しいですけど、いないってわけじゃありませんし。そうですね、今年の新人で第七班ってのがあるんですが、これがなかなかお買い得だと思いますよ。メンバーの中にあのうちはがいますし、能力については問題ナシ――――そうして「それに」と最後にこう付け加えたのだった。
あそこについてる上忍師はね、こう呼ばれてるんですよ。
「コピー忍者、ってね」
「!」
驚きと、そして恐らくは喜びに、目を見開いた彼女の瞳がこどものように輝いていく。頬を上気させた彼女の様子に、思わず布の下で顔がゆるんだ。そろそろあいつらにも休みをと思ってたんです。ま! ここはひとつかわいそーな上忍を助けると思って。
「この話、ノってみてはくれませんかね?」
未知への不安と目の前の眩むような甘い誘惑に、彼女が落ちるまであとちょっと。
・・・・・・
当初はヒロイン視点だったんですが、ちょこっといじってカカシ視点に。
うんでもなおしてみてもやっぱりカカシじゃない気がします(ダメじゃないか、ねぇ)
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