浮気はしないの。
「あの、はたけさん」
「ん? どうかしました?」
恐らく仕事に向かうところなのだろう、玄関から出てきた隣人を呼び止めた彼女は昨日回ってきていた回覧を渡すと、彼の懐に納められた“ソレ”に目をとめて少しだけ眉を潜めた。
そうして、前々からの疑問をついに口にする。
「……いつもいつもその本って、飽きません?」
「これですか?」
彼女の視線の先――――“イチャイチャパラダイス”を持ち上げ確認を取ると、彼はすぐに即答した。
飽きませんね。
はぁ、と彼女は感心混じりの息を吐く。
「たまには、浮気しようとか思わないんですか?」
「ま! 浮気はしない性質なんで」
浮気しない男がこの世にいるのか。一瞬疑念が頭をよぎった彼の言葉はともかくとして、彼女は羨望の眼差しでもってその本を見た。飽きないと、読者に思わせる本を書いてみたい。そんな作家になってみたい。
「……読んでみます?」
まぁ、あんまり女性にすすめられるものじゃありませんけどね。彼女の視線に気づいたからだろう、彼がためらいがちに本を差し出すと、彼女はやんわりと首をふった。
今他人が書いた本を読むと、ヘンに影響を受けてしまいそうでいやだった。実際はそうでもないかもしれないし、逆にいい気分転換になるかもしれない。それでも彼の言葉で、萎えかけていた意欲は湧いた。それで十分だ。
――――それに。
「また今度、貸してもらうことにします」
だから、ちゃんと帰ってきてください。
そんな約束、できない世界だってわかっているけど。だからこそそれは飲み込みせめてもの言葉を口にする。彼の負担にならないように、帰ってきたいと、思えるように。
「お仕事、がんばってくださいね」
でも、そんな感情も彼にはすべてお見通しなのかもしれない。
忍の世界に“絶対”なんて存在しないのに、それでもありえない“絶対”を信じられそうな笑顔でもって彼は笑って地を蹴った。
「いってきます」
・・・・・・
夏のお題と同じ、隣人さんヒロイン。
昔に書いた奴を発掘発掘。
当時の扉絵(2005年WJ27号)のアオリ文に煽られて一気に書いてしまったやつでした(笑)
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中毒だから。
飽きませんね。――――そう即答した己を思い出して、彼は苦笑した。これではまるで“イチャパラ中毒”ではないか。字面はもちろん、声に出してもなさけない響きだが、しかし同僚たちだけでなくかわいい部下たちでさえ一様に肯定の意を示してくれることだろう。否定してくれそうな人物が見つからない辺り、自分は人間関係に恵まれていないように思う。
その事実は面白くないが、自分でもあの本に依存してるのは自覚してるから反論のしようがないのが哀しい。
(ま! いいんだけどね)
木々、あるいは民家の屋根。もしくはどこかのビルの屋上を飛び越えながら、彼は諦め混じりの息を吐いた。苦笑交じりの表情は、やがて現れた三つの小さな影を視界に入れた瞬間変わる。口布の下にはかすかな笑み。
身を包むどうしようもなく愛しい日常が、自然と表情を変えてしまう。
「おっそいってばよ! カカシ先生ーっ!」
たとえばそう、こうして怒りを露にするかわいい部下たち。「いってらっしゃい」と送り出してくる隣人。ありえない平和な光景が描かれた――――バカらしいまでに男のロマンが書かれた本。それからあまり思い出したくはないけれど、ヒマさえあればやってくる暑苦しい勝負の申し込み。それらすべてが殺伐とした暗闇の中から、自分を救い出してくれる。
だからやめられない。
どうしたって手放せない(暑苦しい勝負は別として)。
飽きるなんて考えることすらできないのだから、やはりこれは中毒の域なのだろう。ただ全部まとめて“イチャパラ中毒”と呼ばれることだけはごめんだが。
「すまんすまん。今日は中毒の疑いがあるって医者につかまってなー」
「……イチャパラの?」
「や。そこは否定してちょーだいよ」
守りたい日常がそこにあるという幸せ。
部下の言葉に肩を落としつつ、彼は今日も、その幸せを噛み締める。
・・・・・・
「浮気はしないの。」の続き。
イチャパラはカカシにとって日常に戻るためのスイッチなんじゃないかなーと思ったんですよね。イチャパラ一度でいいから読んでみたい…。
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ご褒美ってことで。
最後の一文字を書き終わって、うーんと大きく伸びひとつ。
窓に目を向ければ、そこには眩しい朝日が差し込んでいる。つい今日も徹夜してしまったらしい――――苦笑して疲れた身体をほぐしていると、伸ばした左手を後ろからよく知る掌が包み込んだ。思わず後ろを振りかえれば、お疲れと微笑んで、左の手の甲に口づけている恋人の姿。
「はたけさん!?」
一体いつの間に。ていうか鍵は。
(ていうか今キっ……キ!)
おまけに今の彼はいつものベストもマスクもない。仕事終わりの疲れた身体には甘すぎるその姿と、先ほどの行為にかーっと顔が赤くなる。
「ごめん。集中してるみたいだったから、勝手にお邪魔させてもらったよ」
ご飯できてるけど、食べる?
腰に腕を回されて、リードされるままに立ち上がる。真っ赤になってうろたえる私とは対照的に、はたけさんはどこまでも楽しそうで。
「すいません、全然気づかなくて……」
「気づかないようにしてたんだから、お互いさまでしょ。むしろ不法侵入でこっちが謝らなきゃいけないってのに」
真面目っていうかなんていうか。笑いながら私の首に顔をうずめて、はーっとはたけさんは息をつく。
「あー、この感触。ほっとするねぇ」
私は抱き枕かなんかですか。
思わずつっこみたくなったが、恥ずかしさのあまり全身が硬直してしまってそれは叶わない。それでもおずおずと背中に腕を回すと、私を抱きしめる腕に力が篭もるのを感じた。やばいな、と甘い声が耳を打つ。
「ご飯とかいったけど、後回しにしてもいいかな」
「え?」
「仕事中だと思って我慢してたんだけど。というか、我慢してたからちょっと限界?」
直後服の中に入ってくる掌に、慌てて背中を叩いて抵抗する。
「ま、まってください! 私徹夜明けで!」
「ん。知ってる。ずっと見てたし」
「ずっとっていったいいつからいたんですか!? ――――じゃなくて、だから汗臭いし汚いと思うんです!」
あぁもう、なんたって好きな男にこんなことを言わなくちゃならないの。
バタバタ必死に暴れながら(とはいえはたけさん相手ではあんまり効果はないが)既に私は涙目だ。
「俺は気にしなーいよ」
「私は気にするんです!」
せめてお風呂にはいらせてください!
叫ぶと、初めてはたけさんの動きがぴたりと止まった。
お風呂、ね。ぽつりと呟くはたけさんを恐る恐る顔を上げて窺うと、そこにはにんまり嫌な感じの微笑みひとつ。
「いーね。一緒にはいろっか」
言うやいなや、はたけさんは私を横抱きにして歩き出す。
うきうきと音符が踊っているのが見えるような喜びようがとても怖い。
(っていうか何この展開!?)
「はた、はたけさん!?」
「ん〜? 何?」
「お風呂ならひとりで」「はいるわけないよねー? 俺、結っ構待ってたし? ご飯だって作ってさー。ま! ご褒美ってことで」
「!」
あっという間に服を脱がされシャワーを浴びて。
身体を洗われたりあれこれ(!)されている間に、浴槽にはお湯がちゃんと張られていた。
――――逆を言えば、お湯がたまるまでいろいろされたわけだけども。
だから一緒に湯船につかる頃には、私はすっかり疲れ果ててしまっていて。
若干ふくれながらはたけさんに体を預けていると、さすがに無理をさせた自覚があるのか、ぼそぼそと、言い訳らしき呟きが聞こえてきていた。
いやさ? 俺のこといまだにはたけさんって呼ぶからさ? ついムキになっちゃってね? ――――聞こえてきた内容に呆れて振り返ると、ごめーんね? と啄ばむような口づけ一つ。
そういや確かに、最中ずっと「名前、呼んで」と強請られたけど。
しつこいぐらい言われた記憶はあるけれど。
「まさか、そんなことが原因ですか!?」
「そんなことって。結構重要なことなんだけどね」
ム、とした彼の表情に、しまったと思った時には後の祭り。
今後絶対、彼を拗ねさせてはいけないと。
文字通り身体で覚えさせられて、私は固く心に誓ったのだった。
・・・・・・
割と付き合いたてな時期のイメージ。
「名前で呼ぶの、恥ずかしかったんですから」
なんて真っ赤な顔でぼそぼそ言って、カカシにまた襲われたらいいと思います(…)
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ついでだものね。
わたしの最近の関心事は、締め切りを控えた原稿――――ではなく、かといって年頃の娘らしくオシャレをすることでもなく、すべてはただひとりの人間に捧げられている。
はたけカカシ。
この部屋に越してはや数ヶ月、一度も会ったことのないわたしのお隣さんである。
彼は“あの”はたけカカシなのか、はたまた同姓同名の別人か。わかっているのは、わたしがいつ回覧板を持っていっても会えないほど、不規則な仕事に就いているということだけだ。
たとえば仕事が煮詰まっている時。
もしくは、今のように、朝、呆けた頭でご飯を作っている時などなど。
ふとした瞬間気になってしまうのは、ひとりぐらしの寂しさ故か。一体どれだけ飢えてるのかと、突っ込む自分にすら嘆きたくなってくる。
気を取り直して、醤油を鍋にひとたらしすると、艶のある黒い液体は、ぐつぐつ煮えるカレーの中にすぐに吸い込まれて消えていった。……まったく、こんな風に煮込み料理をしていると、へんな思考が頭を支配していけない。カレー食べたかったから仕方ないけど。
スプーンでカレーをすくって味を確かめると火を止める。
気を取り直したはずなのだが、それでも、なのか、やっぱり、なのか。無性に壁の向こうの存在が気になった。さて、と鍋の中のカレーをみて考える。物語ならばここでカレーのおすそ分けでもしたものなのだが。
彼とは顔をもあわせたことがないし、わたし自身もそこまで積極的な性質ではない。そもそも朝からカレーのおすそ分けだなんて、果たしてその行為は有効か否か。
視界の端に映った回覧板に、ついでだものねと言い訳のように呟いてみた。エプロンをはずし、一瞬迷って回覧板だけを持って部屋を出る。
だいたい彼が今部屋にいるとは限らないのだ――――これまで散々会えずじまいなのだから。
だから、これは本当に“ついで”の賭けだ、そう自分に言い聞かせる。
彼がいたら、カレーのおすそ分けをする。ただそれだけだ、隣人同士の付き合いにおいてなんらおかしな行為ではない。ごく普通のこと、それを行うだけなのだから、どこに緊張する意味がある!
けれども彼の部屋の前に立つと、バカみたいに心臓は高鳴った。体の変なところに力が入って緊張して、おかしなところはないだろうか、なんて、小娘みたいな反応をしてしまう。
ピンポーン。
聞きなれたチャイムの音が止んでも、こたえはない。
やっぱりか。思いながらも往生際悪くもう一度チャイムを鳴らす。
それでも返ってくるものは何もなくあきらめかけたその時、アパートの廊下をこちらに向かって歩いてくる男性と目が合った。
緑色のベストに額あてという、一般的な忍の格好だ。しかしその額あてを斜めにして片目を塞いでいる銀髪の忍を、わたしはこの里でひとりしか知らない。
「はたけさん?」
おそるおそる声をかけると、向こうも回覧板に気がついたのだろう、眠そうなもう片方の目を見開いた。
「お隣の……」
予想外の素敵な低音に、小娘の心臓が一気にヒートアップするのがわかった。
本人であることの衝撃もあわさって緊張しながらうなずくと、彼は恐縮した様子で頭を下げる。「いつもすいません。回覧板、置いてもらってて」
「あ、いいえ。そんな!」
慌てて声を上げたはいいものの、その後が続かない。お忙しいのは承知していますからもごもごもご――――受け答えすらまともにできないなんて、いい年して何やってんの! 内心で思い切り舌打ちしてしまう。
もっと気の利いた会話とか、季節のあいさつとか。
(散々仕事で話作って人にしゃべらせているくせに、なんで今でてこないのよ!?)
「……えぇと、その、話題にでた回覧板です」
内心泣きそうになりながら渡すと、彼は苦笑して「確かに」と受け取ってくれる。その柔らかな雰囲気に少しほっとして、私はようやく会話らしい言葉を引っ張り出すことに成功した。
「いつも、こんな時間にお帰りですか?」
「いろいろですけどね。割と朝も早く出てしまっていますから。……気にせず郵便受けに入れておいてください」
「わかりました」
ぶっきらぼうなわけでもなく、つっけんどんなわけでもなく。
言葉遣いも丁寧だし、物腰も丁寧ないたって普通の――――大人の男性。
それが、畏れ多くもあの天下のはたけかかしと遭遇した、私の第一印象だった。
たった一言二言の会話を交わしただけなのに、彼がずいぶんと身近に感じられて思わず口の端に笑みが浮かぶ。それじゃぁ。会釈した彼に、同じく会釈で返して部屋へと入り――――
扉を閉めて落ち着いた瞬間、部屋の中に漂う匂いにハッとした。
「…………カレー忘れた……」
あぁでもいっか。一息ついて、ずるずる崩れ落ちそうになる膝を叱咤する。
ともあれこれで、お隣さんの正体はわかったわけだし。
充分な収穫じゃないのと自身に言い聞かせ、私は空腹を訴える体のご機嫌をとるべく、台所へと歩き出した。
・・・・・・
遭遇編。です。
ん〜。
我ながら、相変わらずの盛り上がりのない話(苦笑)
(二千十一年一月二日 修正)
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